『固定』

2010/12/5

 『固定』は前述の『圧縮』には必要不可欠なことです。 ICチップの中身が型番ごとに固定されて変更されないのと同じです。

 今、私は自分の考えを文章にまとめる作業をしていますが、これはまさしく『固定』作業です。 もっとも、「現在の考え」を固定化しているのであって、この考え方が終生変わらないとは限りません。 ふわふわとして取り付く島の無い状態の考えでは、評価することも修正することも難しく、 『固定』化することで評価を加え、新たな考えに移行する可能性を広げることができます。 言語は考えのズレ・ブレを極力抑える働きをします。
 また、「共通の体験」に基づく「共通の言語」に付随する概念は、ある程度の『固定』を必要とします。 個々人の間で微妙なズレはどうしても生じるものですが、 おおむね『固定』化されていなければ、他の人との意思の疎通が不可能になります。

 新しい情報を概念として迎え入れようとして、 既にある項目とうまくかみ合わない時、 元からあった『固定』されたものを移動してまで受け入れるでしょうか? 現在の考え(概念)に疑問を持ち積極的に組み換えを望んでいる場合を除き、 多くの場合は既存のものをそのままにして新しいものがはまる場所を探します。 見つからなければ新しい項目を捨てて(忘れて)しまうことが多いでしょう。 これまでに培ってきた『固定』化され概念のために、 人は新しい考え方を受け入れることが難しくなります。

 情報として入ってきたものを捨ててしまうことは容易なのですが、 肉体感覚器官を通して入ってきた認識はなかなか捨て去ることが出来ない場合が多くあります。

 例えば「痛み」。原因の分からない痛みに襲われたとき、 自分の概念上考えられない「痛み」だからこれはありえないので無視しようということにはなりません。 分からないものを突きつけられることは大変な不安です。 過去に経験をしていないことなので、その次に何が起こるのかわかりません。
 病院に行って検査してもらい、原因を探します。 結果、何かのアレルギーで、原因になっていたのが自分の大好きな嗜好品であったとしましょう。 その原因は概念の中で楽しませてくれる良いものの位置を失い、 苦しみの原因の悪いものに変更されます。 そして今まで知らなかったアレルギーの情報が概念の中に書き加えられ、『固定』されます。 そして、安心を得るのです。

 こころの病については本当に深刻な問題も多くあると思います。 ●●●シンドロームみたいなのが一時増えました。 原因が良く分からない症状を、何件もの病院を廻ってようやっと病名を診断してもらうと 原因までは解明されずとも、名前が付いただけで一安心することがあります。 そして、同じ症状を感じる人はその名前と症状を見て、 自分も同じ病気なんだと自分の位置を『固定』ます。
 これはコミュニティの中で、「共通の言語」イコール「共通体験」という公式が成り立つことから、 自分の状況を周囲に公認してもらうことを意味します。 『固定』は帰属意識を満たすものでもあります。

『固定』したものを安易に動かすことは培ったものの放棄に繋がり、 と成長することをやめてしまうようでもあります。 コミュニティにおける「常識(common sense)」という共通の固定観念は、 人がコミュニティに帰属する安心感をもたらしています。 この『固定』した概念は人が社会生活を送るために有効に働いているのです。

 さて、「洗脳」という言葉があります。 これは一定のコミュニティの「常識」を持ってで生活していた人に、 これまでの「常識」を覆して違った概念を植えつけることを指すようです。 主に、覆された「常識」を持つコミュニティ側から使われる言葉です。 コミュニティが変わることで「常識」は大なり小なり変化するもので、 そのどちらが正しいと言うものではありません。
 極論かもしれませんが、日本では、戦前に軍国教育を子供たちに与えていましたが、 戦後、自由主義教育に大きく舵取りをしました。 現在ではこの軍国主義の教育の方を「洗脳」教育と言っています。 これは、現在の自由主義の立場から、異なる「常識」である軍国主義を批判して使用するもので、 当時の状況を考えれば、自由主義へ「洗脳」されたと表現できます。
「常識」の激変は人の心の成長の上で大きな危険を伴います。 例外的にキリスト教的「回心(信仰に目覚めること)」をして、 後に熱心な信徒としての生活を送ればその激変は歓迎される変化になります。 しかし、変化をもたらす経緯にも因るところが大きいのですが、 多くの場合は後の人生に傷として残ることが多いようです。

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