概念が志向する『拡大』

2010/12/4

 言語によって『区別』『圧縮』『固定』されたものが蓄積され、組み上げられるものが概念であると書いてきました。 この概念は『拡大』を指向します。
 『拡大』を指向すること自体は言語や思考など『知』の働きによるものではなく、 『情』的に「快」をもとめる傾向によるものです。  ここでは概念の『拡大』のしかたについて考えたいと思います。

フッサールは次のように言っています。
 「認識の客観性や真理性ということを、主観の外側に存在する客観との一致と考える必要はない。 たしかにデカルトのいうように主観は主観の外には出られないが、それでいっこうにかまわない。 『これは真だ、客観性がある』という確信が生じるのは主観の内側でのことだからだ。」

フッサールやデカルトの主張のように、 主観(こころ:自我)が主観(こころ:概念、観念、認識)の外に出られないものであれば、 主観(こころ:自我)が自ら(こころ:概念、観念、認識)の拡大を目指すのは当然のことと受け止められます。 広い・狭いの「快」「不快」の感覚評価はおおむね広い方が「快」となります。 森羅万象は私の外的な環境として存在していますが、概念は、自我の内的な環境と言っていいでしょう。

 人は生まれた時には何の概念も持ち合わせず、 肉体の感覚器官から入ってくる情報を受け取るのみです。 言葉を覚える以前から、様々な感覚を記憶してゆきますが、 その時点では概念の形成は不十分です。 言葉を覚えたところから、概念は大きく、繊細に構築されてゆきます。 これは先に触れた『圧縮』『固定』によるところです。 また、言葉を覚えるということは、言葉の意味を同時に覚えます。 つまり伝統的な概念を覚えることになるのです。 ユングの言う共通の無意識の原因の一端を担うのは、 このように形成された概念ではないかと思われます。
 三重苦の少女ヘレン・ケラーは、 サリバン先生に出会い、物に名前があることを知ったということですが、 「名前」の存在を知る以前から人間らしい生活は出来ていたそうです。 しかし「名前」の存在を知って以降、その知性は格段のスピードで成長したとの事。 成長後の彼女の世界的な活躍はとても有名な話です。

 概念は貪欲に拡大していきますが、むやみやたらに拡大するものではなく、 内容の整合性が必須です。 整合性をあわせることはパズルを組み立ててゆくことに似ています。 パズルと言っても、予め出来上がり図の用意されたパズルではありませんし、 平面的なものでもなく、何層にも複雑に重なり合う摩訶不思議なそれでいて美しいパズルです。 真っ白な紙の上にパズルのピースを一つ、二つ置くことは簡単なことですが、 数が増えてきた時には、お互いの関係性を考えながら次のピースを置かなければなりません。 パズルを組むときには分かりやすい特徴的なものから置いてゆきます。 置いてゆくと、ピースが組み合わさった幾つかの島が出来てゆくのですが、 そのの島と島が繋がったときはとても気持ちの良いものです。 この繋がることが整合性の良いことなのです。 記憶が概念に昇格するわけです。
整合性の無い記憶は概念として成立しません。ただの不可解な記憶です。  ところで、子供の物覚えが速い理由は、ここにあるでしょう。 整合性を合わせる対象が少ないので、ピースをすんなりと記憶の上におくことが出来るのです。 ピースの島がまだ少ないし、小さいのです。 大人になって、既に複雑に組み上げた概念のピースの中に新しいピースを置くためには、 合うか合わないか確認しなければならない相手が沢山あるのです。

 私たちはパズルの組み立てを目的とした時には、 組み上がったパズルのピースに関心を持ちません。 より大きくするために新しいピースを求めます。 そして新しいピースが何処にはまるのかを考えます。 これは、人が新しい事象を好む傾向に似ています。 「新製品」という言葉に人が魅了される所以です。

 「こころの在り様」で、肉体で感覚して得られる記憶以外にも、 感情や思考の結果に名前が付けられることに触れましたが、 こういった思考の結果の名前も概念に蓄えられる材料になります。 私自身が思考したものは勿論ですが、 他の誰かの思考結果でもそれは「情報」として受け入れます。

 こういった情報を「概念」として受け入れるためには、 その情報の整合性が良いことが条件になります。 良く体系化された「情報」は真偽を別にして受け入れられやすく、 たとえ真実であっても他の概念との整合性を求めにくい単発的な「情報」は受け入れにくいものです。 また、これまでに持っている情報の続きのようなものは容易に受け入れられるし、 未完の概念は完結することを求めるので、空白を埋めるピースは進んで探しに行くし、 若干収まりの良くないピースをはめ込んでもみるのです。 これは「思い込み」「はやとちり」のあらわれです。
 人は真実を知りたいと言いながら、自らの概念の空白部分に適合するピースのみを信じ、 当てはまらないものは虚偽であると感じます。 つまり人は求めた答えしか受け取ることが出来ません。 時に科学者たちでさえ、収集したデータから自分の予測と離れたものを誤差であると切り捨ててしまえるのです。 これも自らの概念を拡大するのに不都合である故と言えます。


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