物質と感覚の時間性

2010/11/14

 「音速」や「光速」という言葉をご存知と思いますが、これは音や光が進む速さを表しています。
つまり音源や、光源から、それを受け取る人に届くまでには「時間」が必要なのです。
古い映画などで時間が止まって主人公だけが動けるシーンなんていうのがありますが、 止まった時には「音」はなくなっています。 フィルムの映画の一こまを切り取ったイメージなのでしょうが、 本当に時間が止まれば音ばかりではなく色や形も見えなくなってしまうというのです。

 身近にある物に触った時、物に応じて様々な触感を得ます。
●表面の細かな形(ツルツル・ざらざらなど)
●硬さ(硬い・やわらかい)
●温度(熱い・冷たい・暖かい)

 ツルツル・ざらざらは、物に触れただけでは少し分かりにくいです。 撫でたり、ちょっとだけ指を動かしたりして、 ものの表面の抵抗を感じ取って初めて明確に分かります。
 硬さについては、少しだけ力を入れてみて へこむか、押し返してくるか、 押し返してくるとしたらどのくらいの強さと速さで帰ってくるかを感じます。
 温度は、触れている私の肌の温度を基準にしてそれよりも高いか低いかを感じます。 これは私の皮膚温のエネルギーが触っている相手に流れてゆくか、 相手から流れてくるかを感じているのです。

 お気付きになったと思います。 人の感覚には多少なりの動きが伴っています。
動く、つまり運動には時間を伴います。

 逆に、時間というものは運動によってのみ計測されます。
そもそも一日という単位は地球が地軸を中心に一回転するのにかかる時間です。
砂時計はガラスの器に入った砂が上から下へ落下するのにかかる時間。
クォーツ時計は水晶の振動数を基準にして針を刻みます。
 時計ではなくとも、心臓は一分間に何回くらい動くとか、 100メートル走るのには何秒くらいとか、 赤ちゃんが生まれてお座りできるには何ヶ月くらいとか、 ご飯が炊けるまでにかかるのは何分とか、 時間を認識するのは何かの動きや変化によってです。
変化というのも細胞や分子単位での移動、つまり運動によって起こることです。

 物質の本質は運動である。と言っていた人がいました。
その人は唯物論が正しいと言う人です(心は脳の産物だと言うタイプ)。 確かに、先に挙げた原子核の周りの電子は核の周りを回転していると習った気がします。
たしかに回転運動をしていなければバラバラになるか衝突するかのどちらかでありましょう。 太陽系も同じ。

 逆に、スコラ哲学の大物アウグスティヌス(354〜430)は時間について
「過去についての現在、現在についての現在、未来についての現在」があると考え、 それを可能にしているのは「精神の延長」であり、 時間とは過去を記憶しつつ未来を期待しながら現在を直視する「精神の延長」に他ならない。 と、しました。
 「私」という意識は現在という一瞬にしか存在できません。 但し、現在とは一瞬後にはもう過去になっています。 フィルム映画のコマの一個一個を飛んで歩いているようなイメージです。 しかし、飛んで歩いている私は複数のコマに同時に存在することは出来ないと言うのです。 存在することは出来ないけれど、現在の私は 記憶に中の過去を思い出せるし、未来に向けて計画したり夢も見られる存在です。
そうであるから時間はただ心の中にだけあるんだよということらしいです。 現代日本ではあまり一般受けはしなさそうです。

 時間は物質が運動することによって成立するという立場。
 時間はただ心の中にあるとする立場。
この二つを相反するものとして、どちらかが真でどちらかが偽であるとするのはまちがい。 物質の運動を観測することで私たちは時間の経過を知ります。 観測する私の知覚(こころ)は常に現在にしか居ません。 現在の一瞬前にあった物質の位置や形は既に私の記憶の中にのみあるものです。

 ここで感覚の問題に立ち返ると、 感覚するには運動(波・振動・抵抗・移動など)が必須であり、 運動はすなわち時間です。
感覚するということ自体が、 一瞬一瞬の記憶のコマを繋ぎ合わせて総合する作業であり、 時間という概念と表裏一体と言えます。

 私たちが感覚するときには、肉体の感覚器官が感知できる物質のみ感覚しますので、 私の知る「時間」とは、私の肉体の機能によって定義付けらるようです。  私(地球人類)以外の感覚・スケールを持って感覚する存在には、 時間の流れさえも全く違ったものになってしまうのです。

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