言語生活における『区別』

2010/12/4

 『言語のしくみ』の項目で触れたように言語は初めに名前を必要とします。 名前を付けることは他の物事との差を認識することにほかなく、 物事を比較して『区別』したものに名前をつけることができるのです。

 肉体を持つ生命にとって重要な『区別』は、「衣・食・住・性」 (この内、「衣」と「住」は共に肉体を置く環境とみなせます -着飾ることは社会性にかかることなのでここでは考えません-。 「環境・エネルギー・繁殖」の三つと言い換えることが出来ます。) に関わることでしょう。
安全・危険。 食物・毒。 繁殖の相手かライバルか(男・女) これ等は子供の頃から教えられたり、経験したりしてその『区別』を概念の中に分類します。
 次の段階で「好き」「嫌い」の『区別』をつけます。
これもやはり子供の頃からの経験の中で「快」を伴う経験と共に記憶されるものは「好き」 「不快」を伴う経験と共に記憶されるものは「嫌い」に分類されます。
 その次に、より大きく、多く、美しく等の「More」が来るのでしょう。
この「More」は言語というよりも、数値的な概念によって比較・表現されることが多く見られます。

 人が先に挙げたような『区別』をするというのは、 概念により形成された『枠』に入るか入らないかの判断をします。 勿論、肉体の感覚器官をもって観察をし、 他の存在との差異を見出した上で『区別』していることは前述のとおりです。 一つの存在は複数の『枠』にまたがって認識されていて、 それぞれの『枠』に対しては「是」か「否」の二値で判断します。
例えば、目の前に一つの「りんご」があったとしたらそれは 「果物」「食べ物」「赤いもの」「丸いもの」といった『枠』に「是」です。 もっとも、多くの人は「りんご」という『枠』をあらかじめ持っているので、 「りんご」であれば「りんご」と判断し、 「りんご」の属する「食べ物」などの『枠』にふさわしい取り扱いをするこになります。

 世の中にはいろいろな『枠』が「共通認識」されていて、 人はそれぞれの『枠』の内側で物事を考ます。 (いろいろな『枠』を行き来しながら考えられる人もありますが、 一つの『枠』のなかでしか考えられない人もいます。 …「りんご」であれば、「食べ物」、「装飾品」、本のページを押さえる「重し」だったり…)  「共通認識」された『枠』はとても重要なものです。 「共通認識」とは「共通体験」に基づく「共通」の「認識」です。 これはウィトゲンシュタインの言語観に合致します。 「共通認識」された『枠』に付けられた名前は、 「共通」の仲間社会(コミュニティ)の言語に他なりません。

 「是」か「否」の二値で判断するということは、容易に対立軸を作り出します。  先日古いドラマを見たのですが、そこから引用させていただくと、 「世の中には2種類の人間しかいない。使う者と使われる者、貴族と奴隷の関係…。」 という『区別』を設け人間を2分割しておりました。
 比較する基準枠を設定し、その『枠』に「是」か「否」かを問えば、 たとえ人間でも必ず2種類に分けることが出来るのです。 ここでは「貴族」「奴隷」という名前を象徴的に用いています。 この場合の『枠』は設定する人が自由に設定しているだけで、 「共通認識」された『枠』とは限りません。 また、この『枠』は無限に設定することが可能です。 この『枠』の設定は、その人の物の考え方を象徴します。 このドラマでは人の力関係を重視していることが伺えます。 設定基準はその人がこれまでにどんな経験をしてきたかに因るでしょう。
(これは『弁証法』という対話の形式を表してもいます。)

 この『枠』は物理的なモノにだけ当てはめられている訳ではないことは、 先に挙げたドラマのセリフでお分かりと思います。
物理的なモノの場合には少ないのですが、 語には反対語とか対語というものがあります。 熱い・冷たい/大きい・小さい/男・女/健康・病気…等 この『枠』による『区別』は集団や時代の価値観によって変化し、 往々にして「差別」に繋がります。 「不良」のレッテルを貼られたなどの『区別』もあります。 また、成立の過程は単純なものではありませんが、 「国境」などもある意味で人が思考して設けた『区別』と言えます。

 『区別』はそれ自体に善悪を規定できるものではありません。 『区別』が無ければ秩序は産まれません。
無秩序=混沌・混乱を好む人は少ないと思います。 好むという人も、現体制に対する不満から変革を望む過程としての願いである事が多い様です。
●同じである事(同じ『枠』内に所属)を好む傾向
_帰属意識・孤独の回避。集団になって身を守ろうとする傾向。
●違っている事(独自の『枠』を持つ)を好む傾向
_自立・自己実現(アイデンティティ)。本来的には個人は他者と同一ではありえない。
 緩やかな区別は必要なものです。 区別することによって逆に産まれる連帯感はそのコミュニティの帰属意識を満たします。 コミュニティは「共通体験」と「共通認識」の成立のためにも必要です。
しかし、国境のように、区別があるから戦争があるという意見もあります。


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