知情意の相互的関係

2010/10/31

 思考についてはここまで多く触れてきましたが、これはこころの機能の一部で『知』の部分です。 この主な機能は比較・分類です。ここには言語が大きく関わりますが、言語と同様に、数値も関わります。

 『知』的機能が人にとって重要なものであることは勿論ですが、 『情』的機能の重要性を忘れてはいけません。 『論理的秩序』に則って書こうとするときには、 この問題は馴染まないように思われますが、ないがしろにできない問題です。 これをないがしろにすることが、人の不幸せの一因となっています。 なぜなら人が幸・不幸を感じるのはこの『情』的機能だからです。

 『情』的機能の一番基本は快・不快の二つだけです。 快をもたらすものは好きになり、不快をもたらすものを嫌いになる。 そして『知』的機能をもって好きなものと嫌いなものを区別して記憶し、 それぞれに名前を知り、複雑な関係性を理解します。 『知』的情報には『情』的評価が付いていて、比較して選択する際には重要な働きをもちます。 『情』の機能無しには『知』の判断は大・小などの数値的なこと、 あるいは異・同の差異的なことに限定されます。 美・愛・正義・道徳の判断材料は『知』的機能には含まれていないのです。
 ウィトゲンシュタインによれば 「殺人を犯してはいけないのは、それが私の美意識に反するからだ」ということになるそうです。 一見訳の分からない言い分であり、いい加減な印象を受けます。 しかし、これは善悪の判断は美醜の判断と同様に、情緒的なものであることを示します。 そして彼にとって言語のは『知』的役割のみを負うものであることから、 これは論じ合うべき問題ではないということなのです。


 また、『情』にはエネルギーを創り出す、いわば発電所のような機能を持っています。 いわゆる「元気」の出所です。
 「好きなも」のを手に入れれば誰だってうれしい。 「好きな人」のためなら頑張れる。
『知』的にも、わからないことを調べたい気持ち、「知的好奇心」はエネルギーと考えられますが、 分からない事の不快感、分かった時の快感は、いわば快・不快をともなう『情』的機能なのです。

 さて、「元気」ひいては「やる気」は『意』に直結します。 『意』は情的力と、知的情報の複合でその方向性を定めることができます。 生理的欲求や反射にも対応します。 私には心の構造をこの『知』『情』『意』に分類するときに、 この『意』については他の二つの付随的機能に感じられます。 意欲という行動的・積極性のある機能のようであって、 実は判断力という主体性には欠けていると感じるのは私だけでしょうか? 肉体的な生命についての本能的な欲求にも対応するものと思われますが、 この本能さえも肉体的感覚から来る「快」・「不快」に分類されてしまうのです。
 つまり一般に言われる『意』とは、「快」によって生み出されるエネルギーそのものではないでしょうか?

 人は本来「快」に向かうことしか出来ないのです。それ以外にはエネルギーが供給されません。
 しかし、この『情』的判断を停止して、『知』的判断のみで行動することを求められることが多い昨今です。 そして実際にそのように行動しています。 『知』においては情報の整合性と拡大が前提となり、そうでない状態は「はっきり言って困る」わけです。 『知』的にそうであれば、 『情』的には「不快」ですので、その「不快」を解消することによって生じる消極的「快」を得ます。 消極的であろうとも「快」のエネルギーですから、動くことができるのでしょうし、 『知』的不整合による「不快」に向かって進むことも出来ないのです。 これがいわゆるストレスとなって人の心を病む原因となっていないでしょうか?

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