魂〜自我・共通感覚〜

2010/11/6


 魂というのも人間の『体』に対する意味での『心』を表現することばの一つです。 しかし、この『魂』という言葉は『体』というよりは『肉体』から別個に独立した存在であり、 『肉体』が滅んで後も永世する存在としての実態的要素を含んでいます。
これは前述の『霊』という名前を使用してもいいかもしれませんが、 『霊』と言うと肉体が滅んだ後に残されたものというニュアンスを強く含む場合が多く、 ここでは『魂』という名前を採用したいと思います。
 私は実際に死んだことは無いし、幽体離脱みたいな経験も無いので、 『肉体』から切り離された『魂』がどんな状態なのか実感はありません。 人のいう話と、私自身の肉体的感覚とこころの在り様を 比較した中での推測だけしか許されない領域です。 そのような状況ですが、ここでは観点を整理し、存在様相の可能性を提示してゆきます。

 心については、脳が生み出すものという考え方が一方にあります。 脳すなわち肉体がが生み出すものであれば、 実態としての肉体から切り離して論じることには意味が無いということになります。
 しかし、おーばはこの考え方では納得できませんでした。 もしも、『こころ』が脳、すなわち肉体から生み出されるものであるなら、 肉体は自らを傷つけたり、 あるいは殺したりする可能性を持った『こころ』を生み出したのでしょうか?
 より、精神世界を鍛錬しようとする宗教家の多くは、 肉体の欲求を否定するような生活を送りますが、 これも『こころ』が肉体を律し、管理する主動的立場にあることを示します。 『こころ』は肉体に寄添って存在していますが、肉体の活動の結果としての存在とは考えられません。

 この『魂』は私の本体と言えるでしょう。 『人格』であり、フロイトの言うところの『自我』(=自己の存在への確たる認識)でもあります。 (仏教的な感覚では、この自我さえも自家撞着、自己への執着でしょうから、 最終的には捨て去るべきものになるのでしょうが、 捨て去った時点で個別の相が無くなってしまうのでここでは『自我』を採用します。 この個別の相が無くなるという状態にも思うところがありますので、 別に記述できればと考えています。)

 幽体離脱などの話を信頼すれば、魂に視聴覚は備わっているように思えます。 中空から自身の肉体を見下ろすということは、感覚器官である眼球から離れた位置からの観察です。 感覚は肉体のセンサーを通じて得られる情報であれば、魂には感覚器官が無いでしょうか?
 肉体に備わる様々な感覚機関の情報の全てを統括して一つの認識を生み出す感覚(sense)を 『共通感覚(sensus communis)』と言います。 感覚という名前を持ちながら、これには感覚器官がありません。 『人格』直結という印象を持ちます。
視覚は光という物理的波動・粒子に対する感覚、聴覚は音波という物理的振動波に対する感覚で、 どちらもデカルトのいう『延長』(=空間的広がりの世界)での出来事、 すなわち肉体の属する世界での出来事です。
 これを心の世界に繋いでいる『共通感覚』、魂はこれを持ってゆくのでしょうか? この『共通感覚』であれば、物理的世界への感覚を受け入れることが出来そうな気もします。
 もちろん、肉体の感覚器官をもって鍛錬し、感性を習得しなければ魂独自では使えないでしょうし、 肉体のセンサーと同等の機能を持つことは難しく思われます。

 記憶は脳に全く依存していないものでしょうか?
脳の損傷によって記憶が失われる事象をよく耳にします。 様々な事象から、脳のどの部分が記憶にかかわりを持っているかも判っているようです。 しかし、死者の脳から直接記憶を読み出すということは、 SF映画の中だけの話しか聞いたことがありません。
 霊能者が死者の言葉を聞くときには、その死者の記憶に基づく話をします。 閻魔様の前ではこの世での所業の全て(過去の記憶?)が明らかにされると言います。
記憶の全ては脳の機能を利用しながら心に刻まれるものと考えて支障は無いようです。 脳の損傷による記憶の喪失は、心と肉体とを結びつける肉体側の機能の損傷(接触不良?) と考えれば納得が行きます。 しかし、脳の機能はどのくらい思考や記憶の成立に影響を与えているものなのでしょう。

 魂に肉体の機能の全てが同じに備わっているとすれば、 魂にとって肉体は何の価値も持たないものになってしまいます。
 肉体にとって魂は自らの生命を危険に晒す存在です。 魂にとって肉体が不要なものであれば、両者は一緒に存在する意義を持ちません。 存在するもの全てに意義を求めることを否定しなければ、 肉体は、(私の本体である)魂を成長させるための莢(さや)や繭(まゆ)のようなものと考えられます。

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