思考と言語〜論理的秩序のために〜

2010/10/16

 思考・理解することに言葉は大きく関わっているものと思われます。
ソシュール(1857〜1913)によれば、「精神は言語によって考えているが、 考える内容は言語のあり方によって影響されると考える。」
また、「分かっているならきちんと言葉で説明できるはずだ」などという表現も普段よく耳にします。
そして、この思考もまた、こころとしての機能の一部分です。

 私には考えることの全てが言語によるものだとはにわかに納得しがたいと感じました。 実際に、絵を描くときの色の組み合わせ、ご飯の献立を考えるときの味のバランス、 場の雰囲気に合った演出方法を考えるその雰囲気など、言葉に表現しきれない『考え』は 多く存在しています。
 しかし、色々な文章の端々に「思考は言語によって成立する」旨の言葉を目にします。 恐らく、こういう表現をする場合には、 先の『考え』はただの『思いつき』程度に分類されてしまうのでしょう。

 哲学者も思想家も、言語の種類は違っていても言葉を駆使してその考えを伝え、残してきました。 言語という手段以上に考えをよく伝える方法は無いし、 この言葉があるからこそ、人はその考えを深めることが出来るのです。
 思考することはそれ以前に理解しているものの上にしか成り立ちません。 理解、すなわち分かることが「説明できる」こととするならば、そこには言葉が介在しています。 理解していないものについて考えることはそれこそ『想像』ということになります。
先に挙げた『思いつき』でも、イメージをまとめ、考えていくうちには 「甘い」「辛い」「赤い」「しっとりとした」「華やかな」 などの言葉を頭に浮かべていることに気がつくのです。
そして言葉に置き換えることによって、 そこに象徴される莫大な情報を記号化して圧縮し、思考の効率化を図っています。

 言葉が思考および伝達に最良の手段であるから、人はそれが絶対的であると勘違いしていますが、 実際には注意が必要です。 一冊の本を何人かが読んで感想文を書けば、一つとして同じものは出来上がりません。 計算問題の回答とは違うのです。

 言語の問題について、ウィトゲンシュタイン(1889〜1951)を少し調べたのですが、 彼は『私的言語』は存在し得ないとします。
「言語は他者との共通体験により成り立つものであるから」
…個人の特殊な能力・才能についての言語は認められないものであるように感じられます。
「存在するものは語り得る」
…説明のつかないものは「存在」すらしていない的な論。
つまり世界を言語の中に閉じ込めその外側を蚊帳の外に追い出したようなものです。 逆に言えば、言語が取り扱ってよいものを限定しているのですが、 結論の出ないものを語ってどうするんだということでしょうか?
彼のこの姿勢には狭さを感じるという意見を見たことがあります。 彼の見解はコミュニケーションツールとしての言語と、 思考のフィールドとしての言語が全く一致するという前提の上で、 その限界を示したものと私は解釈します。

 今、ここで私が考えを文章にして表現しようとするならば、 ウィトゲンシュタインの見解を十分に考慮しなければなりません。 なにしろ、彼が「語るべきでない」とするものについて私は語ろうとしているからです。

 啓示やインスピレーションを言語に表現しても、 それは他者との共通体験によって成立したものではないので 一般的な論議にはなりにくいのです。 しかし、言葉で説明できないことが存在しないことの証明にはならないし、 言葉で説明できるものが全て存在するわけでもないことを語る試みを始めます。

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