言語によって名付けられた心の名称 〜知情意、意識と無意識、フロイトについて〜
2010/10/23
言語は肉体に備わるセンサーによって感覚されたものを分類、
名前を付けると書きましたが、それ以外にも名付けられたものがあることにはお気付きでしょう。 心もそうですが、嬉しいとか、悲しいとか、善悪とか…。 感情や思考の結果にも名前がつきます。しかしこれらは『共通体験』しにくい内容になります。 そうであるから『心』に付けられた名前については、同じものにいくつもの異なった名前が付いていたり、 同じ名前で呼ばれていても、内容が大きく食い違っていたりしています。
心には『知』『情』『意』が存在すると言われますが、
これは心の動きを観察・思考した結果、その機能的な側面を分類したものです。 一つの心の動きについての考察なのでそれぞれが実態としてバラバラに存在するわけではありません。 『思考』自体も、心の『知』的活動に含まれます。 『情』は愛や美、喜怒哀楽を担当する機能。 『意』は意志や意欲。 これらはお互いに影響しあいながら機能しています。 この『知』『情』『意』については次頁でもう少しお話を展開します。
『意識』『無意識』『集合的無意識』は、
フロイト(1856〜1939)、ユング(1875〜1961)等によって発表された心の階層の分類です。 自分で意識できる心の部分と、 自分ではもう忘れてしまっているような過去の出来事なのに、 現在の判断や行動に影響を及ぼす記憶の部分を分けて、『意識』『無意識』と名付けています。 『集合的無意識』とは、人類にあるいは民族に共通した記憶が個人の中に埋め込まれているとして、 名付けられた部分ですが、私はこの共通の記憶という解釈には賛同しかねます。 これは人間の肉体の構造が共通していることから似たような感覚は得られるし、 前に書いたとおり、人は思考する際に言語を用いる以上、 その言語に込められた文化・意味合いはある程度共通に各個人にもたれるものです。 (心に構造があって、この構造が共通するものであれば『知』『情』『意』の全般で同じことが言えます。) そして、この意識の各階層にはそれぞれ『知』『情』『意』が機能できると思われます。
『超自我』『自我』『原我』の分類はフロイトの考察による分類です。 これは自我を無視した意思の暴走が 知的に走るか感覚的に走るかの度合いを示し、フロイトの価値観を良く表していると思われます。 この分類で注目に値するのは『自我』(=自己の存在への確たる認識)のみと私は考えます。 自我は『共通感覚』『本心』に通ずるものと考えます。 フロイトの心理分析は、『欲望』=『本能』であり、本能と理性からの抑圧により人の心を解釈しようとする試みと考えられます。
以上は『こころ』を分析して付けられた名前の例ですが、他にも『こころ』の実態としての
『魂』『霊』『精神』などの名前があります。場合によっては『意識』『自我』なども同様の意味合いを
持つこともあります。
これらはその名前が使用されるシーンによって使い分けられることが多いように感じます。
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