言語の対象〜肉体の感覚〜

2010/11/3

 思考することが比較・分類することであるとするならば、 いったい何を比較し、分類しているのでしょう?
「野のすべての獣と、空のすべての鳥とを」と聖書にあるごとく、 鳥や獣のように人は目に見たものの違いを認めて名前を付けます。 つまり、肉体の五感などで認識される感覚の内容を比較し、分類します。 五感とは、視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚の五つを指しますが、 肉体の感覚器官にはこの五つ以外にも平衡感覚や内臓感覚など様々あり、 それらは全て比較・分類の対象になっていますし、多くの名前が与えられています。
 これらはウィトゲンシュタインの言う『共通体験』できる内容です。 ところで『共通体験』ということは、複数の人に共通した体験です。 思いつきや考えたことなどではなく、 現にそこにあって誰でも見たり触ったり、聞いたり出来る存在を複数の人がそのように出来ることです。

 ところでデカルト(1596〜1650)は感覚について
 「ひょっとするとそれは『夢かもしれない』、 また『ある悪い霊があらゆる策をこらして私を誤らせようとしているかもしれない』」 と言ったそうな。 この物心二元論以来、主観(私が感じること)は客観(現にそこにあるもの) に一致することが出来ないというのが近代哲学の問題となりました。

 私が体験したことを、同じように隣の人が体験(感覚)しているかは何を持って証明するのか? という問題ですが、 肉体の構造が人類に共通しているという事実は、 自分自身の視覚や触感をもって確認することが出来ます。 自分の肉体と同じ形をし、同じような動きをするのであれば、 それは自分と同じような機能を持つであろう。
これは信じるしかないことですが、 人は人生の経験の中で幾たびも他者との感覚の共通性を確認しながら成長してゆきます。

 20世紀初頭に現象学が登場します。
これはフッサール(1859〜1938)やハイデガー(1889〜1976)によって立てられました。 主観と客観を別々に考える二元論ではなく「私にとってどのように認識されるか」 主観の中での出来事から物事を考えてゆく学問方法です。
 このことによって『私の体験』に名前を付けることに、新たに意味が生じます。 (これは思考のための言語・ウィトゲンシュタインの言う『私的言語』と言ってよいでしょう。) そして、『共通体験』による「共通の名前」を持ち、 その名前を使用する『言語』によるコミュニケーションによって、 他者との共通体験が正しく共通であることをくりかえし確認し、 それを確信してゆくことが可能になります。

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