言語のしくみ〜比較・分類・命名〜

2010/10/16

 公園で遊んでいる子供たちは知り合いでなければただの子供です。
だけど、ウチの子供はただの子供ではありません。 「タケシ」だったり「マユミ」だったりします。特別なのです。

 「名前を付ける」というのは、それ以外のものと区別することから始まります。
拾ってきた猫はただの猫なのだけれど、「じゃあウチで飼おうか」という段で名前をつけます。 たとえば「チコ」と名付ければ、その時からただの猫ではなくなる。 「チコ」という特別な存在になります。 しかし、その名前を知らない人から見れば、「チコ」はただの猫なのです。
 「チコ」はどうやって他の猫と区別するのでしょうか? それは毛色や体格、鳴き声などの個性で見分けるのですが、個性はすなわち特徴です。 他の猫と違っているところを比較して抽出して「チコ」を他の猫と区別しているのです。 また、裏返してみれば「チコ」という名前にその猫の特徴を圧縮して象徴しています。

 旧約聖書にはこんな行(くだり)があります。
『また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。 彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。 そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、 彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。 人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。』(創世記第二章十八)
目の前にあるものを比較して、差異を認識し、それぞれに名前を付ける。 これが言語の基本パターンです。 動物ばかりではない諸々の物・状態・動きなどに名前は付けられています。

 また、言語というものはとてもデリケートなものです。
国や地域が違えば言葉が違うのはあたりまえですが、同じ土地にいても時が移れば変化してゆきます。 現代日本の状況を見ても、同じ家庭内でさえ、世代が違えば通じない言葉が存在します。 これは言語がコミュニケーションの重要なツールであることにも影響されます。
 犬や猫の区別は世界中にあるかと思いますが、 先述の猫の区別は「チコ」を飼う家族内の他には「チコ」がかかる獣医さんだけが知っている区別でしょう。
 これと似たことは国のレベルでも起こります。
世界各国では各々文化が違っています。 例えば日本語では雨や風に多くの名前が付けられています。 時雨、霧雨、五月雨、狐の嫁入り…同じ雨でもそれぞれ特徴を捉えて違う名前が付けられています。 この区別は他国にはなく、ただ、雨と呼ばれるか、 あるいは日本とは違った区別をして、日本には無い名前で呼ばれるのです。

 こういった言語グループの区別の仕方の『差異』に着目し、思考への影響を考えたのが 前ページに挙げたソシュールです。

文化の違いは言語にも大きく影響を与えており、 人は生まれて母国語とセットで、母国・地域の文化を習得・吸収しています。 そしてそれらの区分と名称は、その人の思考のベースになってゆくのです。 つまり、言語を共有するグループは同時に『思考のパターン』を共有していることになります。

 言語活動であるこれらのモノの違いの比較、区別(分類)、名付け(命名)は 思考する活動の一環です。 つまりこの比較・分類・命名は思考の本質でもあります。

 思考のフィールドである言語の命名する特性が思考に反映しているのか、 逆に思考が物事を区別することから始まるから、言葉に分類(区別)する機能が備わったのか、 その始まりはニワトリとタマゴの関係ですから知る由もありません。
 言葉の特性が思考を形作るにしても、 思考の特性が言葉を生んだにせよ、 言葉が思考の特性を表していることに間違いはありません。




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