記憶と概念と人格

2010/11/3

 前の頁で「『知』的機能をもって好きなものと嫌いなものを区別して記憶し、 それぞれに名前を知り、複雑な関係性を理解します。」と書きましたが、 これは体験したことが記憶に残されていくことを表します。
 私たちは自分自身の記憶には整合性を求めます。 この整合性が合わない記憶については夢か幻だったのか、非常に違和感を覚えます。

 この整合性の良い記憶、 それがやがて概念として成立していくのだけれど、個々の体験に基づく学習の結果であるから、 個人が持っている概念は、他の誰とも完全な一致を見ることはありえません。 ただ、幼い頃に一緒に育った兄弟や、幼馴染などは、多くの『共通体験』に基づく記憶を持ち、 共に喜び悲しんでいれば、それぞれの概念に共通する部分をより多く持つことになります。
 この概念の形成と共に、人は言葉を増やしてゆきます。 概念の一つ一つにタグのように言葉が付けられてゆくのです。 概念を整理するときにも言葉が用いられるので当然のことですが、兄弟や幼馴染とは言葉が共通します。 また、大人になってからでも一緒に仕事をしたり、交流を持つことで『共通体験』を多く持つ者同士は、 言葉が近くなるし、共通の概念も増えてゆきます。 出身地の違いにより、言葉や習慣に違いが出るのはこれらの違いによるものです。
 フロイトが現在の行動に影響をもたらす『無意識』と呼んだものは、 『概念形成』の元になった記憶で、言語というタグのついた『概念』そのものはいつでも『意識』できるけれど、 その元になった『体験』の詳細を忘れてしまっている状況であると、 ここでは考えます。

 『記憶』『概念』という言葉を持ち出しましたが、この二つは似ていて少し違うようです。 日本語で言う『記憶』の方は過去の全て、思い違いや曖昧なものまで全て記憶であり、 普段忘れてしまっているようなことも何かの拍子にふと思い出せたり出せなかったりです。
 『概念(concept)』の方は前述のようにある程度整理されたものですし、 また、詳細な部分は無視していたりします。
 そして更に似たような言葉に『観念(idea)』というのがあります。 こちらは『概念』よりも更に抽象化されています。
 抽象化というと勘違いすることがあるのですが、 これは具体的な個別性を排除した大きなくくりを指します。 マユミさんや花子さんではなく、女性だったり、ヒトだったりを指します。 そして『観念』ではその抽象化されたものの完璧な像のイメージを持っていると考えて下さい。 『理想』に近い意味合いを含んでいます。 民主党のマークを思い出してください。 マルが二つ重なっていて、 上のきれいなマルが観念的なマルに近く、下の水に映ったようなマルは概念に含まれているマルです。 『観念』は『概念』よりも厳密であるので、他者との共有がされやすい傾向にあります。
ただし、この『概念』と『観念』の区別は使う人によって変わってくるのでご注意ください。

 『記憶』『概念』は各個人に個別的な存在であり、完全な共有をすることが不可能です。 そして個人個人の体験に基づき形成され、これらによって全ての判断を行う基本であれば、 これは『人格』そのものではないかとも感じられます。
 しかし、『記憶』も『概念』も今現在から考えれば既に過去のものでしかありません。 『人格』とは過去形のものではなく、現在進行形であり、未来性を含むものです。 つまり、感受性・想像力・創造性などの可能性を持つ生命そのものなのです。  



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