『小論文を学ぶ・知の構築のために』

長尾達也(http://www.aa.alpha-net.ne.jp/tatngo)著
山川出版社

2010/7/3

 この本は大学受験に向けての参考書です。受験など何の関係もないおばさんがどうしてこんな書籍に手を伸ばしたかといえば、「コミュニティ」というキーワードからでした
 2005年、世の中の居心地の悪さにただ逃げていても何の解決にもならない、何かできることはないのかと、思い巡らせたときに思い至ったのは『語ること』でした。しかし、語るためには必要なものがありました。何を語りたいのか、誰に語りたいのかといった内容と、そして語るための言葉それ自体です。そんな訳で、引篭もり気味な私はネットに頼ってみたわけです。自分自身の思いがいったい何者であるかからのスタートでありました
 その頃強く引っかかっていたことが「権利」の問題であったと思います。「権利」の起源、あるいは権利の裏付けが何者であるのか、そんなことを調べたときに、フランス革命時の「権利の章典」「アメリカ合衆国独立宣言」から啓蒙思想の「社会契約論」へ遡りました。そして「社会」から「地域社会」「コミュニティ」「共同体」と、殆ど連想ゲームのように言葉は連なっていき「共同体主義」へとたどり着きました。

 この本は三部構成になっていて、第一部では《読みと書きの技術論》、第二部では《小論文に必要な知の構築》、第三部では《実践演習を通じての知の習得》(本書「はじめに」より)から成っています。第一部からしっかり身に着けていけばもっとまともな文章を作ることができたのでしょうが、まだまだそこには至っておりません。私がこの本で注目したのは第二部です。ここでは現在の高校生の意識の基本となっている「近代的知」の起源を解説し、大学受験の小論文に必要な「20世紀的知」を解説しています。この「20世紀的知」の中に「共同体論(コミュニタリアニズム)」が出てきます。
 ここでは20世紀的知・「コミュニタリアニズム」は、近代的知・「リベラリズム」と対立するものとして書かれております。「リベラリズム」は個々人の権利の平等を追求し、それは公共性より優先されるものであり、「コミュニタリアニズム」は人間はすべて共同体の中に生存するものであり、共同体に先立つ個人はありえないとして、個人よりも公共性を優先する考え方と紹介されています。
しかしこの本は「コミュニタリアニズム」について解説する本では勿論ありません。もっと大きく「近代的知」から「20世紀的知」への大変貌について解説し、「20世紀的知」へと読者を誘(いざな)ってゆきます(それが大学受験の小論文試験に求められている心得であるという大前提に基づいてのことです。)。それは4つのキーワードと二つの3×3のマトリックスによって展開してゆきます。マトリックスというのは私には正直良く解らないのですが、コンセプトを総当りのリーグ戦の対戦表のように並べて二つのコンセプトの交わるところを考察していく一覧であります。

 さて、キーワードですが、(1)二元論から一元論へ、(2)分析原理から統合原理へ、(3)意識(理性)から言語(構造)へ、(4)自我から共同体へ、という具合です。コミュニタリアニズムについては、当然4番の中に含まれます。このキーワードの(1)から(3)が先のマトリックスのコンセプトの縦軸、そして従来の哲学で扱われる「存在論」「認識論」に類する(そのものではありません)横軸に連なっています。では、(4)は何処へいったかといえば、これは導き出される結論とも言えます。「共同体」をネットで検索したときに、この本に行き着いた分けです。ここで『我思う故に我在り』と言った近代哲学の父デカルトは諸悪の根源がごとく扱われております。『我思う故に我在り』というこの言葉が大好きな私にはいささか偏見とも感じられますが、20世紀的知を語る上では彼を悪役にするのも仕方のないことでしょうか?
 この本を足がかりに私はこの後に数冊の哲学書を手にするようになります。のろまな私のペースですから、今(2010年)に至ってもほんの数冊しか読めていません。しかし、今この本を見返してみれば、「近代的知」としての近代哲学(デカルトからヘーゲルあたりまで)と、「20世紀的知」としての現代思想(ショーペンハウアー、キルケゴールあたり以降)を対比し、難解と言われる現代思想へ誘(いざな)うという試みがなされていることをを理解します。しかも、長尾達也先生は、それとは気づかせぬままに、哲学専門用語を避け、高校生にも理解できそうな日常的な言葉を用いての仕事をしておられます。先にこの本を読むことによって私のその後の読書生活がそうとう楽になったのではないかと思います。
 この本の中で、現代思想的「20世紀的知」の展望をする際、長尾先生はこう書いていらっしゃいます。『ただ、一つお断りしておかなければならないのは、20世紀的知は現在はまだ着想段階であり、その体系化はいまだなされていないということである。早くその体系化を実現する人物が現れることが期待されるが、まだそうした人物は現れてはいない。』今、デカルトを悪者扱いしても、近代初頭には古いアリストテレス哲学からの解放者であり、近代の体系を成立させた功も書かれていました。そしてここで紹介する内容も部分的な知のパッチワークであるとしていらっしゃいます。
 たしかに、その分析手法も、表現手法も、近代的な学問の延長上で行われる以上、近代を超えてゆくことは難しく思われます。しかし、これらのパッチワークを鳥瞰的に眺めたときにこそ、「20世紀的知」は“感じ取る”ことができるのではないかと、私は思います。21世紀のデカルトを目指そう。




目次に戻る