大自然を崇める
2011/9/3
太陽や月、炎、海、山などに神様が宿るという考え方を唯一神を信奉する人たちは嫌う傾向が強いです。
西欧文明の中心宗教であるキリスト教は唯一神を信奉するので他の宗教を嫌います。
他の神様を崇めてはいけないと教えられています。
古代エジプト・ギリシャ・ローマ・ペルシャなどは多神教の神様を崇めていましたが、
キリスト教の源流であるイスラム教はこれらの国・民族と対立関係にありましたので、
多神教に対する嫌悪感はことさらに強まったことでしょう。
旧約聖書によれば万物(森羅万象・自然物全般)は人間が治めなければならない存在であり、
アダムの罪によって、汗を流して格闘して収穫をする対象と書かれています。
旧約聖書はキリスト教ユダヤ教イスラム教に共通する教典です。
彼等には地の産物は当然の権利であり自然は征服するべき試練と受け取れます。
感謝や崇める対象とはなりえません。
神様がお創りになった森羅万象を讃え、感謝することに何の不都合もありはしないと感じます。
神様の作品であればそこに神性が盛り込まれていると感じても不思議のないことでしょう。
何より、森羅万象がなくては人はこの世に生きることが出来ません。
大自然は私たちに多くの感動と力を与えてくれます。
自然のメカニズムが現在ほど知られていなかった時代に、
世界の全てを統べる唯一神の存在に思いを馳せることは難しかったと思われます。
そうであれば目の前にある大いなる存在に感謝を捧げようとするのは自然な行いでありましょう。
世界中を見渡したときに、太陽の神様が沢山あることに気が付きます。
太陽は人々に多大な恩恵を与えているのです。
海もまた、同様です。
人々は喜びと感謝を形にするために大自然の中に神様を見出してきたのでしょう。
また、苦しいときにも、かつての恩恵を慕う形で大自然に対して祈りを捧げたことが想像できます。
しかし、『神様』そのものではないので同格に扱うことはまちがいであると感じます。
『神様』という概念を整理してゆくことが大切です。
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