最も理解しやすい神様 〜アートマン・真如〜

2011/12/16

 理解しやすいと言っても残念ながらそんなに簡単ではありません。
何処にいらっしゃるか分からず、どんな存在であるのかも分からない神様については 誰かから説明されなければ分からないかもしれません。 しかし、自分自身の中に神様が存在すれば誰にでも自分で感じ取ることが可能だというだけです。 キリスト教のように神様という存在は自分自身とは隔絶された存在であるという印象を持っていれば 感じ取ったその存在を神様として認識することは出来ません。 あるいはその存在を神様とは扱いません。 しかし、人間の中に『神性』を認める考え方は明らかに存在しています。

 最も身近な言葉で表現するならば、「良心」と表現できるかもしれません。 「良心」と言えば、私の欲望が私を邪(よこしま)な行動に駆り立てようとするときに、 それを制してくれる心です。
この「良心」にも様々な次元があって、きちんと解説すれば一冊の本になってしまいます。 このサイトの読書感想文のコーナーに『良心論(その哲学的試み)』という石川文康先生の著作を紹介させていただきました。 この本では「世間と共に知る」「自己自身と共に知る」「神と共に知る」という 3つの次元を考察していますが、宗教的な世界については専門外として掘り下げることをしていません。 主に「自己自身と共に知る」世界を掘り下げて書いていらっしゃいます。
「共に知る」というのは良心の語源である“conscience”から辿られた由来です。 “con”という接頭句には“共に”という意味合いが含まれます。 共にすると言えば私単体で出来ることではありません。 何者か第三者的存在を必要とします。 誰かに言われたからとか、悪い人間だと思われたくないからあるいは良い人だと思われたいとか、 そんな次元で良いと言われる行動をとることも往々にあるでしょう。 これは「世間と共に知る」状況です。
しかし、そうではなくて、「こうしなければならないんだ」とか「なんとなくこうするべきだ」と思い、 自分の利益や評価とは関係の無い奉仕的な行動をとることで自身が満たされる経験があると思います。 これが「自己自身と共に知る」善行です。 逆に「これくらいいいだろう」とか「自分ばかりが苦労しなくっても」という思いもあります。 こちらの思いに従ったときには「良心の呵責」というしっぺ返しがついてきます。 自己自身と言いながらも、私単体では成立できません。 私のうちに正義感や他者のために犠牲にさえもなり得る心が存在ます。
石川先生はこれを「神と共に知る」とは区別しましたが、 これは多様に語られている「神さま」を定義することが難しいことから致し方ないことです。 しかし私は、人間自身の内にある「神性」を肯定する立場からは限りなく「神と共に知る」に近いものと考えます。 私の中にある、「我ならぬ我」の存在は私の内なる神様を認識する上での心強い手がかりとなるはずです。

サブタイトルに入れた“アートマン”というのは古代インドのウパニシャット経典にでてきます。 “真如”というのはその仏教的表現。 他のシーンでは、私の「内なる神様」「我ならぬ我」と表現されながらも仏教的には「真実の我」とされます。 これは「五蘊非我」というお釈迦様の教えで、肉体や感覚器官、思考作用などは本当の我ではないという教えからです。 お釈迦様は具体的な表現をされています。

五蘊というのは
「色蘊」 色かたち、つまりは身体…肉体
「受蘊」 感受作用…感覚
「想蘊」 識別作用…認識
「行蘊」 記憶・意思などの作用
「識蘊」 判断作用
とあり、アートマンはこれ等のものではない存在ということです。

輪廻転生する本体であるとも考えられていますので、必ずしも聖らかな存在ではないようですが、 輪廻転生する本体であれば、悟りの境地に入り「解脱」することが出来る本体であるとも言えます。 解脱することが出来たアートマンは聖らかな存在と言えるでしょう。

日本の仏教においては ご先祖様など他界された方を仏様として祭りますが、 神様に手を合わせるのと仏様に手を合わせるのにどれ程の意識を変えているかと言うと、 殆どの人が変わらないのです。 お墓で手を合わせる場合には遺骨に対して手を合わせることにもなりますが、 お位牌や写真に手を合わせる場合には「五蘊」ならざるご先祖様に手を合わせているのです。

ヨーガなどの修行を通して内なる神様を開眼させようと努力するケースがあります。 基本的には「解脱」ための修行です。
お釈迦様の「八正道」のように純粋に自らを清くしたくて修行するならば良いのですが、 悟る内容を勘違いし、他者への優越感を味わいたいという動機ですればとんでもない勘違いに陥ります。 世界のしくみ、成り立ちを悟ってそれと同化して「力」が得られるという発想さえあります。 しかし、冷静に考えてみれば、これはこの世の物や地位・名誉を求める行動であって、 お釈迦様の言葉では「色蘊」を求めるものです。 お釈迦様の教え「五蘊に執着してはいけない」を信ずるならば、 このような動機をもって修行しても永遠に「解脱」することは出来ないでしょう。 先述の「良心」からもかけ離れています。
神様の全知全能性に結びつくとこんな勘違いに陥り易い。 つまり、「内なる神」は「良心」として働く可能性と共に「邪心」のように働いてしまうケースもあるということでしょうか。 しかしながら、そのどちらにも私の行動を左右する力を持ち、 そればかりか他者や世界までを動かしうる力があるとさえ考えられ、 「力」のみクローズアップされてしまうのです。
この勘違いは様々な事件を引き起こす危険なものでもあります。 危険なものには近づかない方が良いと、新興宗教が胡散臭く思われる要因です。

そもそも、広く世界の歴史を見渡したときに、、善神、悪神という概念も存在し、 鬼神、破壊神、疫神などもかならずしも“善”とは繋がりにくい神様の概念が存在しています。 人は全知全能・絶対善の存在を神様と呼んできたわけではありません。
若干の信仰の経験と、先述の「良心」の観点から 善なる「内なる神」を見出すために、私は二つの判断基準を持ちます。 「心の喜ぶことであるか」と「責任転嫁をしない」ことです。 「誰かがこう言ったから」とか、「彼がやっていることだから」とつられて行くのは内なる神とは違います。 誰かの言動を参考基準にしたとしても、その基準を選んだ自分自身がその責任を負うのです。 そういう覚悟のある判断は「内なる神」から出たものでありましょう。
インドの哲学も、とても優れているのでしょうが、 複雑な内容の“つじつまあわせ”をしてしまうのは人間の悪癖です。 思想・哲学を検証しようと思うときには、神話に限らずすべての説について、この“つじつまあわせ”を排除しなければなりません。 自分自身でも“早飲み込み”や“つじつまあわせ”をしないように注意が必要です。

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